この記事は私がまとめました
「伝統」の定義って何でしょうか。辞書には“昔からうけ伝えて来た、有形・無形の風習・しきたり・傾向・様式。特に、その精神的な面。” とあります。開国し西洋化が進んだ明治以降に創られた「伝統」の事例を挙げてみます。
① 夫婦同姓
日本では民法により結婚した男女は同じ姓(法律上は「氏」)を名乗らなければなりません。夫と妻、どちらの姓を選択しても良いのですが、9割以上は夫の姓を名乗っているのが実情です。
日本では結婚したとき、9割強が夫の姓を選ぶ。働く女性を中心に姓が変わることに不都合を訴える意見は根強い。
源頼朝の妻は「北条」政子でしたし、足利義政の妻は「日野」富子でした。
1875年(明治8年)2月13日太政官布告で「氏」の使用が義務化され、1876年(明治9年)3月17日に太政官指令で「夫婦別氏制」が出される。その後1898年(明治31年)旧民法で「夫婦同氏」が制定された。
庶民が姓の使用を義務化されたのが1875年。その頃は夫婦別姓でした。
ところが約20年後の1898年、夫婦同姓に改められたのです。
そこでいう「伝統」は、たかだか120年前に作られただけ。それも、明治憲法下の明治民法は、非常に差別的だった「家制度」のもとの法律。
過去には、ドイツ、オーストリア、スイス、インド、タイ王国も同氏であったが、ドイツの民法が1993年に改正されるなどした結果、2014年時点で、法的に夫婦同氏と規定されている国家は日本のみである。
日本でも選択的夫婦別姓など議論されていますが、結論の兆しは未だ見えません。
② 土俵の女人禁制
今回の春巡業では、4日に京都・舞鶴市で多々見良三市長が土俵でのあいさつ中に倒れ、救命処置で駆け寄った医療関係者の女性に対して、土俵から下りるよう場内放送が流れた。
この出来事では人命としきたりのどちらが大切なのか、と議論を巻き起こしました。
6日の兵庫・宝塚市では女性の中川智子市長が土俵に上がることができずに「悔しいです」などと、あいさつで訴えていた。
土俵の“女人禁制”は、そもそも「伝統」なのでしょうか?
相撲の歴史は約1500年。
最初の記録は『日本書紀』であり、いわゆる「神事」とされるのも頷けるものではあります。
相撲自体は、長く日本に伝わる伝統的な文化です。
『日本書紀』の雄略天皇13年(469年)には、秋九月、雄略天皇が二人の采女(女官)に命じて褌を付けさせ、自らの事を豪語する工匠猪名部真根の目前で「相撲」をとらせたと書かれている。これは記録に見える最古の女相撲であり、これが記録上の「相撲」という文字の初出でもある。
そもそも「相撲」の始まりは「女相撲」だったとされています。
それが何故か、いつの間にか女人禁制になったみたい。
実は女性が土俵にあがることを禁じたのは、この明治以降の流れにあります。
女性が裸体で相撲を取ることは風俗上好ましくない。相撲の品格向上のために禁止し、そこに「穢れ」という理由をもっともらしく結びつけた――そう考えるのが最も自然です。
相撲の女人禁制は神道とか関係無く、明治時代後半に始まった相撲の歴史から見たら新しい伝統。
③ 神前結婚式
日本の伝統的な結婚式のスタイルと思われがちな「神前式」。
花嫁の白無垢姿も厳かで美しく伝統を重んじる人に人気ですが、これも100年強の歴史しかないようです。
江戸時代以前は、結婚式というものは存在せず、婚礼の儀(道具入れ、嫁入り、祝言)という儀式をおこなっていました。
まず花嫁道具を運び(道具入れ)、花嫁が新郎家に移動し(嫁入り)、家に親戚縁者をもてなして、お披露目会(祝言)をしていました。
かつての日本では、現在の結婚式のようなものはなく、今でいう「披露宴」のみでした。
明治の中頃、皇族の方の結婚式で、現代に近い神前式が登場しました。一説には欧米からの「結婚の儀式もない野蛮な国」という批判を受けて作られたらしいです。
「神前結婚式」という形式が明確となり、一般に広まったのは、1900年(明治33年)5月10日に皇室御婚令が発布され、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と九条節子妃(後の貞明皇后)の結婚式が初めて宮中賢所大前で行われ、同様の神前結婚式を挙げたいという気運が国民の間で高まったことがきっかけである。
神社にしてみても、いままでにない儀式だったので、その内容も手探りでキリスト教の結婚式や、仏前のご祈祷の内容を参考にしたと言われています。
日本でも、キリシタンたちはキリスト教式の結婚式を挙げていたため、日本での結婚式の歴史は神前式より教会式の方が古いのです。
④ 演歌
演歌は日本の心」と聞いて、疑問に思う人は少ないだろう。落語や歌舞伎同様、近代化以前から受け継がれてきたものと認識されているかもしれない。ところが、それがたかだか四〇年程度の歴史しかない
1960年代半ばに日本の歌謡曲から派生したジャンルで、日本人独特の感覚や情念に基づく娯楽的な歌曲の分類の一つである。当初は同じ音韻である「艶歌」や「怨歌」の字が当てられていたが、1970年代初頭のビクターによるプロモーションなどをきっかけに「演歌」が定着した。
昭和三十年前後に登場した三橋美智也は民謡調歌謡曲、三波春夫は浪曲調歌謡曲であり、その時点では誰も演歌とは呼ばない。こう見てくると、〈演歌〉そのものが見当たらない。
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