▼ダチョウ倶楽部が前身となったグループを告白
当時は『キムチクラブ』というグループだったという
「おニャン子から『倶楽部』を盗んで、(メンバーは)20、30人いて、ユニットで何人かいたり、あるいは30人で何かをやったりという前提で組んだんだけど、何一つやらなかった」と振り返った。
当時のメンバーには、俳優の近藤芳正(56)もいたという。「あの人、知らない振りをしているけど」と告白。
しかしその後、今のメンバーになった
新人コント大会の結果はまずまずの成績で、渡辺から「じゃ来月も出るか」そんなふうに言われることが続き、それが繰り返され今の3人組スタイルの基礎が出来上がっていったという。
▼同じく大物のお笑いグループと言えば
1957年の結成時から1969年までのミュージシャン期、1970年以降のコメディアン期の双方で大きく活躍。
1970年代から1980年代中頃を全盛期に、TBS系の『8時だョ!全員集合』やフジテレビ系の『ドリフ大爆笑』などのテレビ番組で活動した。
当時は志村けんは在籍していなく、代わりにメンバーだったのが
荒井注の脱退はドリフのメンバーにとっても青天の霹靂だった。これまで通りのコントを続けていくためには、新しくメンバーを加えるしかない。
この時、リーダーのいかりや長介は、実は荒井と同い年の豊岡豊を加入させようとしていたという。だが、これに反対し、志村を入れるように懇願したのが加藤茶。
「せっかくなんだから、うちと一緒に回ってて、作り方も全部知ってるし、考え方も同じヤツって言ったら志村しかいない」と。
物心ついたときには東村山音頭も知っていたし、志村けんさんは子どもにとっては人気者だったから荒井注さんのあとドリフに加入したあとの不評やつらかった時代を知らなかったから発見だった。
志村けんって、荒井注とバトンタッチした頃は世間では「つまらん」と言われていたなんて知らなかった。我が家では志村けんが出てきた当時から父が「こいつ面白いな!荒井よりいいよ」と絶賛していた。説明が難しいがオーラがあった。身のこなし、表情、話し方、もうそれだけで可笑しかった。
▼今や日本を代表するアイドル
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